所有という幻想

最近メルカリなるインターネットを介するフリーマーケットにハマっている。

訳あって金欠により、過去に散財したバイク用品・キャンプ用品などを出品している。

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世の中には必ず自分と同じ価値を感じる人ってのがいるもんで、出せば出すほどあれよあれよと売れていく。

欲しい物って自分の所有物になると、その所有による満悦感や限界効用はせいぜい1週間程度、物によっては1年程度のもので、誰かが1日だけレンタル料払うから貸してくれって言われれば、別にタダでもいいよってなもんだ。

これは私がキャンプで時々利用していたランタンだ。

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元は私もヤフオクで手に入れた中古品で、買った時の値段よりも高い値段で売れたりするのだが、品物を梱包して運送を仲介するコンビニのロッカーに収めた時に、なんとも言えない負け惜しみの爽快感に包まれる。

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愛着のある物を、いや愛着を忘れてしまった物を手放す時にふと思うのだが、そもそも物質として形があって、その役割・機能を果たす物は、その作り手によって生み出された瞬間からその生産者の物でもなく、買い手の物でもなく、ただこの空間に存在しているだけのことであって、誰の所有物でもないのではないかと。

作り手は完成した時にその満悦感を得て、買い手は購入時のその満悦感を得て、使い手は利用時にその満悦感を得て、傍観者は羨ましくなってその所有者に満悦感を与えては癪に触るのでかっさらってみたい、その価値の形や所在は変幻自在に転々とする。

シェアハウスとかカーシェアリングってのとはちょっと違う。

皆が手に入れられないものを、一個人が満悦感を満たした後で押し入れや倉庫で眠らせてしまう「所有」というのは、もはや「所有」ではなく宝の持ち腐れで「幻想」に変わってしまうのと同じことだ。

「豚に真珠」とは豚に対する酷い差別用語だと思うが、「人に余剰品」で同じことだ。

ネットフリマは例えると、退屈な専業主婦を社会に開放する画期的な仕組みと考えても良い。別に主婦が街へ出て客を取るって意味ではない。

物の命や価値は必要とされて初めてその意義を成し、飽きたら手放し、未練があれば取り戻す、至極自然なことではないだろうか。

貯蓄や結婚、終身雇用というものは、人々の価値を減衰させ、自然界における潮流に反する行為だ。

話が飛躍し過ぎたが、昔から骨董品やヴィンテージギターの市場はずっと存在し、物としての機能は完全に失っており、もはや鑑賞用途でしかない。

そんな物はさっさと手放して、博物館にでも寄付した方がよっぽどその物にとっての存在意義が見出せるというものだ。

つい先日古いアコースティックギターが、買った時の倍近いの値段で売れた。

正直このギターは私が所有する必要性はないと20年近く思っていたのだが、丸い形をそれなりに梱包して外へ出ていくその姿は、呼吸を取り戻して羽が生えたように感じた。

ごめんね。私には余剰品でした。早く気付くべきたったね。さようなら